熊本城本丸御殿
2014年夏に撮影した熊本城本丸御殿の写真を使って書きました。何度画像を見ても、本丸御殿の内部は、豪華絢爛で美しいです。
銀杏城との別名をもち日本三大名城の一つともいわれる熊本城。築城の名手・加藤清正公が築城したこの城は武者返しという独特の石垣でも有名です。
大天守や本丸御殿など、主たる建物は明治維新後の西南戦争で焼失しましたが、天守群は古文書や古写真などを元に昭和に外観復元、また築城400年に際し2007年に本丸御殿も復元されました。
その本丸御殿には、豪華絢爛な金箔張りの部屋が存在します。
本丸御殿の歴史と復元に至る経過
本丸御殿は加藤清正によって慶長15(1610)年頃に創建されました。
細川忠利が寛永10年から12(1633-35)年に大改修、増築した建物群で、さまざまな維持修理を受けながら幕末まで存続したと考えています。
明治10(1877)年、西南戦争直前の2月19日に天守閣とともに焼失しています。
本丸御殿は、桃山時代の武家風書院造で、藩主の居間、対面所(接客の場)、台所などの機能が備わった殿舎群で、大広間・大台所をはじめとして、当時は53室、畳数1,570畳を数えたといわれています。
復元にあたっては、特別史跡であり重要な歴史遺産であることから、史実に基づき忠実に復元することが必要であるため、発掘調査の成果や古写真、文献資料、古絵図資料、木割書等の歴史資料及び創建時期を同一とする類例建物を基本資料として基本設計の作成を行ない、国の復元検討委員会の審議等を経て、文化財保護法による現状変更等の許可を得て実施されました。
本丸御殿内部
大広間
こちらは大広間。一番奥の部屋に藩主(城主)が座り、手前の広間にずらりと家臣たちが座る感じです。手前から「鶴之間」(60畳)「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続き、全体では147畳にもなる大広間です。
謁見の間
大広間一番奥にあるのが藩主との謁見の間。本丸御殿の中で最も格式の高い部屋となり、広間と比べて天井が高くなっています。
若松之間
突き当り、急激に豪華になったこの部屋が若松之間。付書院・格天井を備えた造りで、広さ18畳。藩主が家臣と対面する際に座す部屋であったという。
金箔がふんだんに使われまさしく豪華絢爛です。
昭君之間
そして謁見の間の更に奥にあるのが「昭君之間」。室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
床の間・違棚・付書院・障壁画・鉤上段・飾り格天井を備えた豪華絢爛な空間。
この部屋には以下のような逸話が残っています。
本丸御殿の最深部には、中国の故事に登場する王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵ともいわれる)のある「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。
この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようだが、一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれている。
“しょうくん”=“しょうぐん”(将軍)の意とする説がある(当時は濁点を打たないので、仮名で書けば同一になる)。
表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだという。
「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。
熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将。その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」というのです。
昭君の間には抜け穴伝説もあります。熊本城築城に携わった大工の棟梁善蔵が語った「大工善蔵より聞覚控」という古 文書が残されています。
「昭君の間のうしろに機密の間があつたこつも覚えとる。壁がめぐる仕掛けで、かべが一ちようきりつとめぐつと、ゆかの高さ六尺ばかりのところから、細かはしごで下におりつて、女の髪の毛でねりあはせたつなにすがつて下におり、それからつまるところはふじよう御門からあずき坂にでるやうになつておつた。」
全て熊本弁で書かれているのですが、つまり「昭君の間の後ろの壁が回り、床下の通路にはしごと縄で下りれば、そのまま門をくぐって城外へ出られるようになっていた。」そうです。
壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれています。
天井は格天井に絵が嵌めこまれ、東西南北を春夏秋冬にわけ、その季節の植物や鳥などが描かれています。
家老之間
様々な杉戸絵が展示されています。
「柏に鷲図」
細川家御用絵師・杉谷行直筆の杉戸絵
まとめ
2019年 10月に大天守の外観復旧工事が完了するそうです。また、熊本城に訪れて美しい風景を目にすることを楽しみにしたいと思います。